HOME

 

書評

ジェラード・デランティ著『コミュニティ グローバル化と社会理論の変容』

山之内靖/伊藤茂訳、NTT出版2006

『図書新聞』2006.6.24. 5

 

 

「コミュニティ」の概念に新たに息を吹き込んで、近年のさまざまな社会理論を感性豊かに紹介した快著である。現代の諸理論は、これをコミュニティというキィワードで読み解いてみると、面白いほどその布置連関が見えてくる。この二〇年間の現代思想を総括して先に進みたい人には、本書のような見取り図が最高の案内役となるであろう。都市論、政治理論、多文化主義、社会運動論、ポストモダン哲学、トランスナショナリズム、ヴァーチァル・メディア論――。これらの諸領域を猟歩するための、現代思想のショッピング・カタログとしてもお奨めの一冊だ。

そもそも「コミュニティ」の概念には、パラドキシカルなところがある。フランスの哲学者ジャン・リュック・ナンシーにしたがえば、コミュニティとは、求めることはできても、決して叶えられることのないものである。それはつねに「不在=喪失」として経験されるものであり、しかもその喪失は、「保有していなかったもの」の喪失である。つまり「コミュニティ」とは、私たちの到達不可能な願望でありながら、同時に、本来獲得できたはずの対象物のようにみなされ、たえず私たちの欲望を駆りたてるのである。一九世紀の人々はゲマインシャフト(共同体)の理想を語り、二〇世紀の人々はさまざまなコミュニティの危機に直面してきた。では二一世紀の私たちは、コミュニティに対する願望を、いかにして語りなおすことができるのであろうか。

現代社会はグローバル化の時代と言われるが、グローバル化の現実は、コミュニティをいっそう衰退させているのではないかと心配されている。しかし著者によれば、二〇世紀最後の一〇年から現在にいたるまで、コミュニケーションの新たな技術とともにコミュニティは復活しつつある。流動化するグローバル・モダニティへの「不安」を糧にして、世界規模のルーツ探しや、アイデンティティの探究、あるいは帰属感への欲求が、かつてないほど広範に生み出されているというのである。本書の後半はそうした現実の検討に当てられており、例えば、メルッチの遊牧民的な社会運動、ニューエイジ・トラベラー、移民たちの境界的な文化、インターネットをめぐる諸理論などが、その現実を映し出すものとして紹介されている。

もっとも、現代に再生しつつあるコミュニティとは、もはや濃密な情緒性と結束力をもった絆ではない。新しいコミュニティは、薄く、弱く、拡張的なものであり、ダイナミックに流動化する社会的現実から身を守るための、一時的な「くつろぎの場」として形成されている。現代のコミュニティとは、端的に言えば、想像的で対話的なコミュニケーションのネットワークとなっている。

こうしたネットワークをもって「コミュニティ=共同体」と呼ぶことには、読者は抵抗を覚えるかもしれない。けれどもコミュニティ概念の歴史をたどってみると、カントが『判断力批判』で用いた「センサス・コムニス」(コミュニティの感覚)という言葉が、これに近いところにある。カントのいう「コミュニティの感覚」とは、批判的な判断力を下すことのできる「公共感覚」である。それは美学的な嗜好に対する普遍的な判断力のように、自分の下す判断を他者の判断(最終的には人類全体の判断)と照らしながら、対話のなかで形成されていく。言いかえれば「コミュニティの感覚」とは、主観と客観の誤認や錯覚を避け、自己の社会的な帰属を、公共的な事柄として「想像」するための感覚であり、こうした意味での「コミュニティ」感覚は、コミュニケーション技術の発達とともに、現代社会においてますます求められていると言えるだろう。例えば「景観」に関する人々の判断力などがそれである。

古典的な社会学者たちはこれまで、近代化とともにコミュニティが衰退し、アトミズム的な個人主義が蔓延するのではないかと恐れてきた。しかしコミュニティは、個人主義と矛盾せずに発達する可能性がある。例えば比較的自律心の旺盛な人々は、仕事や家庭以外の場でも、創造力の実現や承認願望の充足を求めるようになっている。また奉仕活動に携わる人々も、その活動を通じて同時に、自己の個人的表現の達成を求めるようになっている。個人主義的な生き方と、参加型のコミュニティの実現は、実はあまり矛盾しないことが最近の傾向として読み取れる。

むろん現代のコミュニティは、それ自体として理想的なものではない。二〇世紀の人々は、理想的なコミュニティを掲げつつ、資本主義社会における倒錯した日常意識や、ますます個人主義化(アトミズム化)する意識を批判してきた。ところが二一世紀の私たちは、もはや「倒錯意識」や「個人主義」に対する批判的準拠点を持たず、グローバル化に対抗するオルタナティヴは、社会に対するラディカルな批判的を展開できなくなっている。新しいコミュニティは、コミュナルな楽園を基礎とした、たんなる心地よい幻想にすぎない、というのが著者の冷静な観察である。

では著者は、いかなるコミュニティを理想とするのだろうか。明確に述べられてはいないが、本書を読むかぎり、現代において理想的なコミュニティとは、安定した権威ないし権力の内部にいるという「帰属感覚」であるような気がしてくる。ますます増大するコミュニティが「想像力によって可能となる一時的なくつろぎの場」にすぎないとすれば、その対極にある永続的で確立された保守的生活こそ、「最善のコミュニティ感覚(意識)」を育むようにみえてくるからである。新しいコミュニティに対する著者の懐疑的な視線は、新保守主義の思想的興隆に糧を与えているようにも思える。「新たなコミュニティは帰属に対する希求以上のものではなく、これまでのところ、場所に代わるものとはなっていない」というのが著者の分析だ。

 

評者・橋本努(はしもと・つとむ)

北海道大学大学院経済学研究科・助教授